WAIS-IV結果

2019年12月、17歳の時に受けた知能検査の結果を書き記します。発達障害の検査の為、受検しました。以下結果です。

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言語理解 122

知覚推理 135

作動記憶 137

処理速度 121

全検査 136

とバラつきがほとんど無く、知能検査の結果のみでは発達障害の傾向は見られませんでした。が、幼少期の話などでASDADHDの診断が下りました。

 

WAISを受検した当日は、手応えがあまりにも無く、かなり気分が落ち込み、太ももに根性焼きを何回もしてしまいました。一年半以上経った今でも跡が残っているほどです。当時は全検査が100切っていると思い込み、自分は知能が平均よりは高い人間だと自負していた為、自尊心が損なわれ、自傷行為に走ってしまいました。なので、二週間ほど経ち、結果を聞いた際にはかなり驚きました。良い意味で期待を裏切られました。

 

受検する前の大雑把な予想では

知覚推理>処理速度>作動記憶>言語理解

で全検査130程度だと思っていました。

 

まず、自分の言語能力の低さを自覚しており、幼少期から国語が苦手で作文も得意では無かったので、言語理解は良くても平均より少し上くらいだと予想していました。

そして、作動記憶。検査内容をあまり知らなかったのですが、言語性の一部であるのでさほど高い数値は出ないだろうと思っていました。

知覚推理に至っては概ね内容も知っており、中学受験時代に算数が得意科目だったので、得意意識がありました。ネットに蔓延っている行列推理のみの簡易診断でもまずまずの結果が得られていたので、知覚推理が四項目の中で一番高いだろうと考えていました。

処理速度に関しては日常生活で使う場面が無く、例えば、百マス計算なども経験に基づく処理速度なので、厳密な能力値は分かりませんでした。

 

予想を踏まえた上で結果を考察します。

言語理解は、比較的単語が低く類似が高く、納得の結果でした。語彙力、そして語彙を説明する能力が低いを自覚していたので、単語はかなりの苦手分野だと感じていました。一方類似は、「○○と○○の共通点を答えよ」のような、あまり知識が要らずパズルのような感覚で解けたので、比較的高い数値が出たのだと思います。知識は、本番変に緊張してしまい、受験終了直後に解答が思い浮かんで落とした問題が二つありました。しかし、本当に知識として脳に定着していれば、いくら緊張していても即答出来るはずなので(例えば自分の誕生日、両親の名前などは、どんな場面でも即答出来るはずです)、それも実力だと思っています。

知覚推理は、全体的に平々凡々とした結果でした。絵画完成は下位検査なので直接的な数値には影響していません。命拾いしました。積木も行列推理もパズルも、可もなく不可もなくといった印象です。概ね予想通りでした。

作動記憶は、結果を知り驚きました。数唱の最後の方は全然分からずほとんど適当に答えたので、数唱が高くて驚きです。また、数唱を脳で映像として記憶したので、本質的な数値はもっと低いと、受検してしばらく経った今になって思います。そして、算数は満点だったと思ったのですが、どうやら最後の問題で不正解だったようです。未だに謎です。計算ミスでもしたのでしょうか。

処理速度は、周囲の人間がどれだけ出来るのか分からなかったので、受検直後は自分の出来はかなり悪いと感じました。しかし、相対的には低くは無かったようです。一安心です。

 

以上の考察から自分の特性を分析します。

まず、言語理解については中学不登校でろくに勉強もしていなかったので、今後最も伸びが期待出来る項目だと感じます。もし十年後にでもWAIS-Vが出たら、自身の能力的に130後半程度が限度でしょうが、一番伸びていると思います。とはいえ17歳の時点で平均よりは高かったのですが、座学によるインプットが苦手だと常々感じているので、もう少し欲しいです。

知覚推理は、あまり日常生活で使わないので、ほとんど無意味だと感じています。中学受験の算数でしか役に立ちません(笑)。しかし僕自身がASDにもかかわらず、他者とのコミュニケーションに苦手意識があまり無いのは知覚推理のおかげだと思っています。人間の第六感のようなものに直結しているイメージです。あくまでもイメージですが。

作動記憶の使いどころは難しいです。筆記試験や執筆などで大きく役に立ちますが、僕は今後筆記試験の勉強をする予定が無いので、素因数分解のゲームでしか今のところ使っていません。何か他の分野で活かしたいです。

処理速度はどうやら仕事で活きるとの意見が見受けられるのですが、僕はあまりそうは思っていません。数学にしろ仕事にしろ何にしろ、全てが経験に基づく処理能力なので、日常生活で本質的な処理速度が如実に出るものなど無いと感じています。強いて言うのであれば、格ゲーやFPSなどのゲームでの瞬発的な対応力、その程度に過ぎないと思っています。

 

と、2000字以上も綴る予定では無かったのですが、僕のWAISの結果が典型的な発達障害者とは全く異なり、バラつきも無くかなりイレギュラーで面白みの無い内容だったので、つい長くなってしまいました。考察にすらなっていない上に何の参考にもならないと思います。また、WAISの結果はWAISの結果でしか無く、数値が高かったからといって偉いわけでもありませんし、低かったからといって劣っているわけでもありません(受検直後に根性焼きした人間が何を言っているのだろう…)。運動神経が良いだとか、絵が上手だとか、歌が上手いだとか、そういった能力と、なんら変わりはありません。あくまで、人間の数多く持っている能力の一部を測ったに過ぎません。僕は自身の記録としてインターネットに残しておきたかったので、長々と書きました。そして、僕は自分より知能指数が高い方々を沢山見てきたので、自分が特別優れている人間だとは思いませんし、決してひけらかしたいわけでもありません。

最後に、ここまで読んでくださった方。ありがとうございました。

 

あなたへ

僕が初めてあなたの姿を目にしたのは、昨年九月の上旬だったと記憶している。ああ、また新たな患者が入院してきたのか、そんな印象だった。あなたが入院した当初、誰とも口を聞いているのを見かけたことが無かったので、精神科思春期病棟の良くも悪くも騒がしいこの雰囲気に馴染めないタイプだろう、接点を持つことも無いだろう、そう思っていた。実際、思春期病棟と言えど、短期間の入院で誰とも言葉を交わさずに退院する患者は数多く居る。彼らは他者との交流を拒み、病室に篭って過ごしている。もしかしたら彼らも本心だと、同年代の子供達と関わりたいのかもしれない。しかし、入院してしばらくしても誰とも接点を持てずに過ごすと、孤立してしまう。なので、当初は、僕が病室の外であなたを見かけても、自ら話しかけはしなかったし、あなたも僕に話しかけなかった。だが、金曜の午前、僕が散歩から病棟に戻ると、あなたは僕の友達と仲睦まじくなっていた。その友達を、ここでは以後Yと呼ぶことにする。その日の昼、僕は良い意味で期待を裏切られる。

まずはYについて軽く触れておく。僕が入院してまず親しくなったのがYだった。僕が誰からも話しかけられることなくホールのテレビを眺めていると、彼が話しかけてきた。彼が赤髪だったので、俗に言う陽キャだろうと思い、僕とは違う属性の人間であろうと判断した矢先に、将棋の話になった。いざ指すと、僕が勝ったが、大した棋力差は無いように感じた。そして彼が僕に向かって「IQが高そう」と告げてきたので僕は具体的な数値を話すと、驚いた様子を見せた。彼自身もIQを測ったことがあるようで、大雑把な数値を教えてくれた。それから意気投合して、彼は、僕より一学年上の浪人生で、東大に入って将来芸人になりたいと話してくれた。八月の頭だった。

そして、Yとは毎日のようにクイズや数学の話をしたり、かなり懇意になった矢先に現れたのがあなただった。

Yがあなたの理知的なオーラを感じ取ったらしく、彼からあなたに話しかけたのだと後に聞いた。

あなたは、Yから僕のエピソードを聞き格が違うと感じたが、いざ話してみると案外明らかやばいというわけでは無く安心した、と、僕の誕生日の際に書いた手紙で教えてくれた。ありがとう。嬉しかった。

少し脱線したが、その金曜の昼から、あなたとYと僕の三人で行動を共にすることになった。

以前からYと僕は二人で、話の合う女の子が入院してくれたら嬉しいなあ、などと常々言っていたので、Yも僕も大喜びだった。三人ともお互いを“君”と呼び色気もクソも無かったが、入院生活が急に楽しくなった。

主に三人の共通項は「シリアルキラー」「知能指数」「クイズ」「文学」などと多岐に渡って、あなたとYのおかげで非常に充実した会話が出来て、生活が豊かになった。

三人で芸人になろうという非現実的な話が出たのはいつ頃だっただろう。僕とYの誕生日(それぞれ十月十日と十月十三日)を迎える頃には既に将来を話していた。あなたが東京藝大、Yが東大理III、僕が東大文系を各々が中退してトリオを組むという、何とも突飛な話だった。そのおかげで僕は少しずつ英単語を覚えるようになったし、あなたもYも勉強し始めて、これほど充実した毎日が精神病院で送れるとは嘘のようだと思った。

程なくして三人は退院した。

丁度その頃から僕の勉強が上手くいかず、夢を諦めたくなった。するとどうやらあなたも勉強が思うようにいかなかったようで、三人のグループで、芸人計画を降りる、短い夢を見させてくれてありがとう、と言い残してグループを抜けた。

それが退院して少し経った頃だったので、十一月の下旬だろうか。結局Yの説得が功を奏してあなたはグループに戻ってきたものの、相変わらず精神は不安定だったように見えた。

最後に会ったのがいつだろうか。もうトーク履歴も消えてしまって正確な日付は分からないが、十一月の終わり頃だと思う。

三人で桜木町に集合して、中華街を散策し、海の方まで行った。夕方頃に、僕が別の友達と会ってくると言って去ったのが最後だった。もう二度と会えないとは思わなかった。

後から聞いた話によると、あなたとYは桜木町の辺りを散策して、Yが「これが最後にならないようにな」と念を押したらしい。だが、その言葉が現実となってしまった。

僕はあなたが精神不安定で希死念慮が高かったのを知っていたにもかかわらず、病棟で知り合った別の友達と会うために一人先に抜けたことを後悔した。まさか三人で摂った最後の食事がラーメン二郎関内店なんて、ネタにすら出来ないでは無いか。

その十日後くらいか、あなたは大量に市販薬を飲んだ報告をTwitterでしてから音信不通になった。

当初は入院しているのかと思ったが、入院中の患者に訊ねてもあなたはいなかったし、別の病院にしては長過ぎたと感じた。近くの病院に搬送されたら、すぐに元の病院に転院するのが一般的だからである。

これは何かが起きたのだと感じ、あなたの家へ年賀状を出したら、あなたのお母様から返事が届いた。一月の中旬だった。

封を切り、覗き込むと、“永眠”の二文字が真っ先に目に入ってきた。十二月七日に天国へ旅立ったのか、一ヶ月以上も前に亡くなっていたのか、何故僕に何も言わずに勝手に逝ってしまったのか。

すぐにYに連絡を取り、電話をして、あなたが亡くなったことを告げた。「何もしてあげられなかったなあ」Yはそう言った。

それから僕の精神も不安定になり、入退院を二回した。

毎月七日になると、あなたを思い出す。あなたは罪深い。一ヶ月に一回も人を陰鬱な気分にさせるなんて。

僕がパチンカスになった姿を見せたかった、一緒に悪事を働きたかった、まだまだ話したいことが山ほどあった。後悔しても現実は変わらないが、後悔してもしきれない。

 

最後はフラットに綴る。

 

あなたにとっての最後の三ヶ月、一緒に居られて楽しかったよ。病院だと毎日朝から晩まで共に過ごしていたからご家族よりも近くに居たんじゃないかな。充実した毎日をくれてありがとう。今でも大好きだよ。安らかに眠ってくれ。

放浪記

八月中旬。世間はお盆の真っ只中。空港は家族連れの観光客で賑わっている。だが、僕はそれどころでは無かった。全てを投げ出したい、もうこんな人生終わりにしたい、そう思い、家を出たのだった。

事のきっかけはアルバイトだった。
札幌に住んでいる彼女に、働かないのなら別れると、LINEで告げられ、慌てて求人に応募したのだった。二年もの間、社会から乖離された空間で生息していた人間にとって、勇気を振り絞っての大きな一歩だった。そして、社会へ対する不安が払拭されないまま外の世界へ出ることになる。緊張でろくに眠れずに挑んだ面接では、上手く健常者を装いその場で採用。余程の腰抜けに見えたのか、本当に続けられるのか何度も確認されたし、あの場で断れば別の人生があったのだと今でも思う。
その日から初出勤までの三日間は、極度の不安で殆ど眠れず自殺を試みるほどだった。何度も、柔道着の帯を首に巻いた記憶がある。太宰治は不採用になり自殺未遂をしたらしいが、僕は採用されたのに自殺を考えていた。何とも情けない。

そして満を持して迎えた勤務初日。いくら有能なアルバイターでも、初めは皆変わらないのだろう。先輩が優しく教えてくれた。意外とこんなもんか、僕にも出来るかもしれない、初めの感想はこんな感じだった。なので、その後、大きく期待を裏切られることになるとは知る由もなかった僕は、二日目、三日目、と何の不安も抱かずに勤務先へ赴いた。だが、五日目に酷く叱責され、現実を突き付けられる。思い出したくもないので、詳細は割愛するが、多大な心的苦痛を受けた。自分はやはり発達障害なのでは無いか、疑惑が確信に変わった。そこで吹っ切れた僕は、翌日からの連絡は断ち、ネット環境を捨て家を飛び出すことを決意する。
そして、翌朝に出ようと計画を練るも、社会不適合者が早朝に起きられるはずもなく、昼頃まで惰眠を貪った。怠惰である。そして、夕方頃に家を出た。

まず、最寄りの路線から、JRに乗り換え鈍行列車で西へと向かう。目的地は決めておらず、ただ電車に揺られるばかりで、先行きが不安でならなかった。そして、今日どこで寝るか、それだけを必死に考えていたら、セントレアという国際空港の存在が脳裏をよぎった。中学受験の地理で習う国際空港ということは、それなりに快適で寝泊りが出来るのだろうという短絡的な考えで、初日の宿が決まった。
名古屋で下車すると、一万円を下ろしに銀行へ向かった。しかし、暗証番号をド忘れしてしまい、三回間違えるとロックがかかってしまった。なんて愚かなのだろうか。
このままでは埒が明かないので、本屋で中部国際空港の位置を確認する。常滑市にあるらしい。常滑焼の産地か、これも受験勉強でやったな、そんなことをぼんやりと頭の片隅で考えながら、安くて空腹を満たせる都合の良い店を探し、駅周辺を彷徨い歩いた。30分くらいふらふらしたところで、入場料500円で白米とドリンクバーとスープが食べ放題である、焼肉屋を見つける。すると、良からぬ考えが閃いた。500円だけ払って肉は一切食べずに店を出よう、と。だが結局、会計で恥を味わうのは嫌だと思い、500円の肉一品を頼み、1000円も浪費してしまった。これならマクドナルドでハンバーガー10個食べた方が良かったのではないかと思ったが、くよくよしても仕方が無い。大人しく名鉄に乗り換え、セントレアへ向かった。

期待を大きく上回る施設だった。空港内のスタッフに確認すると、夜間も寝泊まり出来る場所はあるとのことで、思わず安堵の声を漏らした。これなら何日間か籠城出来る、五日くらいなら僅かな資金でも何とかなるだろう、そう考えながら、ベンチで横たわり眠りについた。
翌朝八時頃に目が覚めると、飽くまで空港は眠る場所であり日中こんなところにいても仕方が無いと思い、無料のシャトルバスでイオンモールへと向かった。
こちらも想像以上に快適な施設だった。
本屋には丁寧に椅子まで設置していて、図書館のような空間だった。更に、携帯屋でネット環境を得られると、またも閃いてしまった。だが、電話番号が無いとアルバイトに応募すら出来ず、稼ぎを得て生活をする道は潰えた。
そんなこんなで、イオンモールと空港を往復する生活が四日間続いた。

だが、何を血迷ったのか、唐突に、空港という狭い空間に辟易とし、大阪へ向かおうと考える。そして、四泊した空港に別れを告げ、名古屋へ向かった。JRに乗り換えると、馴染み深い東海道線に乗り、大阪へ向かう。寝床も飯も何も考えていなかったので、大阪駅で降りると、見知らぬ地の雑踏に思わず怖気付いてしまった。
大阪と梅田やなんばと日本橋の位置関係すら全く把握しておらず、今日は何処で寝るか、それだけを考えた。新たな地でインターネットが無いと行き先を決めることも出来ず、二十年前の家出少年はさぞかし大変だったのだろうと思った。
そして難波まで向かった。観光という意を込めて難波という地に興味があったからである。それから千日前まで歩き、空腹を満たすべくラーメンを食した。ご飯食べ放題はありがたかった。ただ、今夜、どこで寝泊まりをするか、いや、今夜どこで夜を明かすか、それだけが気がかりだった。そして悩みに悩んだ挙句、ファミレスで夜を更かすことを決意する。
着いたのは二十二時頃だっただろうか。閉店までの七時間もの間を同じ椅子の上で過ごすのだと思うと何だか無気力になった。それからは、三歳くらいの男の子を連れたDQN夫婦や、飲んで終電を逃したのかやけに騒がしい中年男性集団六人組、二十歳そこそこの絵に描いたようなゴスロリ系ファッションのメンヘラと、夜を共にした。共にしたといっても一言も口は聞いていないが。
そして、睡魔に襲われ居眠りをしたら、店員に声を掛けられたり、赤ん坊の泣き喚く声で眠りを妨げられたり、散々だった。なので、不愉快だったが仕方が無いと思い諦め、手持ちのノートに思考を書き殴った。三か月後に記すことになる、この放浪記の参考資料である。
大阪での夜は、このように過ごした。

そして、何を思ったのか得意の衝動性を発揮して、関東にある家まで鈍行列車で戻った。五泊六日のプチ放浪だった。まともに寝てすらいなかったので、心身共に疲弊しきっていて、家に帰るとくたくただった。母は心配そうな顔を見せたが、六日程度ならまあこんなものかと思った。
次こそは万全の準備で、満を持して家を出ようと決意した。