放浪記

八月中旬。世間はお盆の真っ只中。空港は家族連れの観光客で賑わっている。だが、僕はそれどころでは無かった。全てを投げ出したい、もうこんな人生終わりにしたい、そう思い、家を出たのだった。

事のきっかけはアルバイトだった。
札幌に住んでいる彼女に、働かないのなら別れると、LINEで告げられ、慌てて求人に応募したのだった。二年もの間、社会から乖離された空間で生息していた人間にとって、勇気を振り絞っての大きな一歩だった。そして、社会へ対する不安が払拭されないまま外の世界へ出ることになる。緊張でろくに眠れずに挑んだ面接では、上手く健常者を装いその場で採用。余程の腰抜けに見えたのか、本当に続けられるのか何度も確認されたし、あの場で断れば別の人生があったのだと今でも思う。
その日から初出勤までの三日間は、極度の不安で殆ど眠れず自殺を試みるほどだった。何度も、柔道着の帯を首に巻いた記憶がある。太宰治は不採用になり自殺未遂をしたらしいが、僕は採用されたのに自殺を考えていた。何とも情けない。

そして満を持して迎えた勤務初日。いくら有能なアルバイターでも、初めは皆変わらないのだろう。先輩が優しく教えてくれた。意外とこんなもんか、僕にも出来るかもしれない、初めの感想はこんな感じだった。なので、その後、大きく期待を裏切られることになるとは知る由もなかった僕は、二日目、三日目、と何の不安も抱かずに勤務先へ赴いた。だが、五日目に酷く叱責され、現実を突き付けられる。思い出したくもないので、詳細は割愛するが、多大な心的苦痛を受けた。自分はやはり発達障害なのでは無いか、疑惑が確信に変わった。そこで吹っ切れた僕は、翌日からの連絡は断ち、ネット環境を捨て家を飛び出すことを決意する。
そして、翌朝に出ようと計画を練るも、社会不適合者が早朝に起きられるはずもなく、昼頃まで惰眠を貪った。怠惰である。そして、夕方頃に家を出た。

まず、最寄りの路線から、JRに乗り換え鈍行列車で西へと向かう。目的地は決めておらず、ただ電車に揺られるばかりで、先行きが不安でならなかった。そして、今日どこで寝るか、それだけを必死に考えていたら、セントレアという国際空港の存在が脳裏をよぎった。中学受験の地理で習う国際空港ということは、それなりに快適で寝泊りが出来るのだろうという短絡的な考えで、初日の宿が決まった。
名古屋で下車すると、一万円を下ろしに銀行へ向かった。しかし、暗証番号をド忘れしてしまい、三回間違えるとロックがかかってしまった。なんて愚かなのだろうか。
このままでは埒が明かないので、本屋で中部国際空港の位置を確認する。常滑市にあるらしい。常滑焼の産地か、これも受験勉強でやったな、そんなことをぼんやりと頭の片隅で考えながら、安くて空腹を満たせる都合の良い店を探し、駅周辺を彷徨い歩いた。30分くらいふらふらしたところで、入場料500円で白米とドリンクバーとスープが食べ放題である、焼肉屋を見つける。すると、良からぬ考えが閃いた。500円だけ払って肉は一切食べずに店を出よう、と。だが結局、会計で恥を味わうのは嫌だと思い、500円の肉一品を頼み、1000円も浪費してしまった。これならマクドナルドでハンバーガー10個食べた方が良かったのではないかと思ったが、くよくよしても仕方が無い。大人しく名鉄に乗り換え、セントレアへ向かった。

期待を大きく上回る施設だった。空港内のスタッフに確認すると、夜間も寝泊まり出来る場所はあるとのことで、思わず安堵の声を漏らした。これなら何日間か籠城出来る、五日くらいなら僅かな資金でも何とかなるだろう、そう考えながら、ベンチで横たわり眠りについた。
翌朝八時頃に目が覚めると、飽くまで空港は眠る場所であり日中こんなところにいても仕方が無いと思い、無料のシャトルバスでイオンモールへと向かった。
こちらも想像以上に快適な施設だった。
本屋には丁寧に椅子まで設置していて、図書館のような空間だった。更に、携帯屋でネット環境を得られると、またも閃いてしまった。だが、電話番号が無いとアルバイトに応募すら出来ず、稼ぎを得て生活をする道は潰えた。
そんなこんなで、イオンモールと空港を往復する生活が四日間続いた。

だが、何を血迷ったのか、唐突に、空港という狭い空間に辟易とし、大阪へ向かおうと考える。そして、四泊した空港に別れを告げ、名古屋へ向かった。JRに乗り換えると、馴染み深い東海道線に乗り、大阪へ向かう。寝床も飯も何も考えていなかったので、大阪駅で降りると、見知らぬ地の雑踏に思わず怖気付いてしまった。
大阪と梅田やなんばと日本橋の位置関係すら全く把握しておらず、今日は何処で寝るか、それだけを考えた。新たな地でインターネットが無いと行き先を決めることも出来ず、二十年前の家出少年はさぞかし大変だったのだろうと思った。
そして難波まで向かった。観光という意を込めて難波という地に興味があったからである。それから千日前まで歩き、空腹を満たすべくラーメンを食した。ご飯食べ放題はありがたかった。ただ、今夜、どこで寝泊まりをするか、いや、今夜どこで夜を明かすか、それだけが気がかりだった。そして悩みに悩んだ挙句、ファミレスで夜を更かすことを決意する。
着いたのは二十二時頃だっただろうか。閉店までの七時間もの間を同じ椅子の上で過ごすのだと思うと何だか無気力になった。それからは、三歳くらいの男の子を連れたDQN夫婦や、飲んで終電を逃したのかやけに騒がしい中年男性集団六人組、二十歳そこそこの絵に描いたようなゴスロリ系ファッションのメンヘラと、夜を共にした。共にしたといっても一言も口は聞いていないが。
そして、睡魔に襲われ居眠りをしたら、店員に声を掛けられたり、赤ん坊の泣き喚く声で眠りを妨げられたり、散々だった。なので、不愉快だったが仕方が無いと思い諦め、手持ちのノートに思考を書き殴った。三か月後に記すことになる、この放浪記の参考資料である。
大阪での夜は、このように過ごした。

そして、何を思ったのか得意の衝動性を発揮して、関東にある家まで鈍行列車で戻った。五泊六日のプチ放浪だった。まともに寝てすらいなかったので、心身共に疲弊しきっていて、家に帰るとくたくただった。母は心配そうな顔を見せたが、六日程度ならまあこんなものかと思った。
次こそは万全の準備で、満を持して家を出ようと決意した。